憂汲
危機一髪前
知人が増えない龍馬さんを気遣うはじめちゃん
坂本さん。そうやって彼が僕を呼ぶのは今となっては睦事の合図だ。
周りに誰の気配も無いのを見計らって、するりと猫みたいに近寄ってきて。どこか寂しさの沁みる声でそっと。甘やかして下さいよ、って。
「うん」
君にだけ聞こえたらいいような僕の声にも寂しさが滲んでいるのかな。君はいつも少しだけ僕の肩に額を押し当てて、やがて子供みたいに僕の袖を引くんだ。
ボイラー室横の部屋に出入りすることが多いからか、斎藤君に宛てがわれた部屋の端々には半年近く経ってもどこか余所余所しい空気が残っている。
そうして僕らの居場所も大抵はベッドの上だ。鍵をかけている間に、僕は先にその場所に落ち着いてしまおうと思う。
だけどそれほど時間もかからないから腰を掛けたあたりで追いついた斎藤君に靴を脱がされてそのまま、まるで大きなぬいぐるみみたいに抱え上げられるのが常だった。
斎藤君の靴が僕の靴の上に落ちるのを横目に見ながら、太腿に置かれた手がゆっくりと辿るのに従って足を曲げる。胸元に寄せられた顔に視線を戻すと、上弦の月に似た瞳が窺うように僕を見ていた。
口元に浮かべる笑みが無いと不貞腐れた子供のようにも見える。それが僕にはどうにも可愛く見えて、自然と頬が緩んでしまう。
好きにしていいよと言う代わりにその短い髪に指を通した。僕の腰を抱くように腕が回って、斎藤君はずるずると膝の上に落ちる。大して寝心地も良くないだろうそこで目を瞑ってしまう斎藤君の髪を、労るつもりでゆっくりと梳く。
最初の頃は髪を伸ばした水浅葱の羽織姿だった。この頃はまだあんたより年下なんですよと嘯いていた彼は、それから暫く経てば黒いスーツ姿のまま同じ口調であんなのは方弁に決まってるでしょと言った。
だから今は坂本さんと呼ぶことだけが合図として僕らのあいだに残っている。
僕はあの頃のふわふわした髪の手触りも好きだったから、それだけがたまに名残惜しく感じるけど。
しばらく膝を貸して、さてどのくらい経っただろうか。斎藤君はむくりと起き上がると僕を寝かしつけるようにベッドへ押し倒した。
「あれ、もうおしまい?」
「龍馬ちゃんは若いほうがお好きなようで」
「そういうわけじゃないけど…。まあ、難しい子は好きだったのかな」
君の素振りで思い出すのは、剣才に溢れた親友。羨望すら覚えた彼。こんな僕を慕ってくれたあの子。そう言えば皆、年上のように振る舞ってみせることが度々あった。それだけ僕が頼りなかったってことなのかもしれないけど。
「ふぅん…そう」
君は小さく相槌を打つ。素っ気無い響きの奥には酷く柔らかい温度があった。君が持つ時間を感じるのはこういう時だ。あの日々を延々と引き伸ばしているような僕の時間とは違う、確かな長い道程の重み。
「不器用な人も好きだよ」
「…あんたのそういうのさぁ、キリ無いでしょ」
「そうだねぇ。僕の周りには随分好い人が多かったから」
正直、会いたいなと思う時はある。こんな風に沢山の人達に囲まれていると、それはどうしたって懐かしく浮かんでしまう思い出なんだ。それは君の中にも沢山あるんだろう。共に歩んできた人達を失い、寂しさや虚しさを抱えながらも前を向いて生き抜いた日々の分だけ。
「だから僕はどんな時の君だって好きだし、そんな風に君を生かす人達が好きなんだよ」
「…そりゃどうも」
ふいとそっぽを向いてしまう君の、組んだ胡座に頭を乗せる。寝心地はそんなに良くない。けれど、君がうんと甘やかしてくれるからね。 願いどおりに頭を撫でてくれる手の愛情深さに僕はそっと目を閉じる。そして心の中で呟く。大丈夫さ、って。これからも思い続けていくだろう。
僕らの日々は君の記憶に残らなくても。
歩んでいける、この気持ちがあれば。